ヒューマンストーリー 小笠原兼雄氏


小笠原兼雄氏は 昭和3年(1928年)に中山村埴原北の学校近くに小笠家の4人目として生まれた。15歳で「満蒙開拓青少年義勇軍」に入隊。

・ 学校で先生から「満州に行けば10町歩の土地が与えられる。」と聞いて家族みんなで行ってもいいと思ったが、とりあえず一人で行ってみようと自分で志願した。卒業式の翌日茨城の内原訓練所に向かった。中山からはみんなで7人だった。そのあと移動して福井でも訓練をやった。

・ 昭和18年(15歳)満州に渡り、汽車で1週間かけて北の果ての黒河省に行った。

・ 作業は一面野原なので鍬で開墾し馬鈴薯、大豆をつくった。木が全く植わっていない所で開墾しないときは燃料用の草を集めることが日課だった。満州はとてつもなく広いと思った。

たまには勉強もした。収穫されたものは倉庫の中に大きな穴が掘られ土をかぶせ作物が凍らないようにして保管した。

・ 周りには中国人もいたがしゃべってはいけないといわれた。

・ 狼を近づけないためにタバコを吸えといわれた。(タバコの火程度でも効き目はあるらしい。)

・ 家が恋しくてシクシク泣く者もいたが、自分はそうはならなかった。

・ 冬はペチカ(壁の暖房)とオンドル(床の暖房)で過ごせたが、外はマイナス40度で何もかも凍って作業はできなかった。

・ 交代で凍ったトイレの便をツルハシで割って掻き出して背負子に入れて外の穴に捨てる作業がつらかった。

・ 部屋ではみんなの息が天井で凍って寝ているとそれが落ちてきて布団がぬれて眠れないことがあった。

・ 飯はコーリャンでとにかくまずかった。

・ 挺身隊に選ばれて南の奉天省に移った。7か月経ったころ終戦を迎えた。ソ連軍が来て体格のいいものはシベリア送りとなった。自分は背が低かったので除外された。ソ連の軍人は時計を欲しがってみんなとられた。

・ 昭和21年(終戦の翌年1946年)港までたどりついて帰国できた。 

・ 帰国した時は栄養失調で髪の毛が全部抜けていた。兄貴と今のところ(埴原南)を開拓した。父親の山仕事を手伝いながら豚を飼った(100頭)。

・ 国策だったが10町分の土地も家を建てられるも全部うそだった。自分はたまたま奉天にいたから助かったが、黒河省にいたらわからなかった。みんなバラバラになった。

取材:H30年12月5日(水)PM  

   写真撮影R元年7月3日

この日は一位の樹を使って鍬の柄を作っていた。万力に挟んでカンナで削っていく

入植当時に使用していた数々のノコギリ

とても今年91歳をむかえるとは思えない働きぶり


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