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松本市中山公民館地域活性化プロジェクト 住んでよかった中山

小岩井宗作

公民館報 第314号掲載

公民館報 第313号掲載

わが国の蚕糸業界の偉人

 小岩井宗作は、明治7(1874)に中山村埴原に生まれた。この年の10月23日に埴原・和泉・神田の3村が合併して中山村となった。

 宗作は、24年に長野県尋常中学校を卒業。当時の卒業生は12人だった。中学校卒業後、蚕糸業を志し、東京西ヶ原蚕糸学校で研修し、帰郷後は家業の蚕種製造に従事した。

 埴原青年会は明治33年(1900)に創立され1月30日に発会式が行われたが、小岩井宗作が会長に選ばれた。

 宗作がもっとも力を注いだのは、蚕種消毒器の発明だった。宗作考案の石灰育(密閉育)は、消石灰の粉末を籾糠のかわりに蚕座に散布して、病毒を撲滅させるのに効果があった。宗作は、明治43年に松本市に蚕種消毒普及会を創立して蚕種消毒に着手した。昭和3年(1928)には会員数6588人となった。

 養蚕飼育の監督にとどまらず、宗作は養蚕の保証にも留意し、収量が減った場合は賠償を受ける制度を定めて会員を厚く愛護し、会員共済制度を設けて災害に対しては共済金を支給した。

 大正6年(1917)1月、松本市・東筑摩郡・南北安曇郡を区域とした会員で組織した信用販売組合普及社を設立、組合長は宗作だった。普及社は大正12年には、上水内・長野市を区域とする組合製糸上水社と併合、埴科・小県・更科の組合も編入した。

 また、大正6年頃から昭和初期にかけて、宗作による小岩井式桑切器が近代的農機具として普及していった。宗作は、昭和元年(1926)には従来の生繭熱乾燥の危険と繭質変化に対処するため、生繭保管の冷蔵庫を建設し、製糸界に大きな衝撃を与えた。また自分の発明した多条操糸機で能率をあげるなどして、昭和3年には大日本蚕糸会から第一功績賞(全国で4人)を授与された。

 宗作は各種の名誉職は一切固辞して受けず、蚕業界の発達に精進し、わが国の蚕糸業界まれに見る偉人と賞賛された。著書に「秋蚕糸種究理法治」「蚕種消毒論」などがある。

​昭和13年6月27日没、享年65.

仙石翠淵

 中山小学校所蔵の「埴原村田植 作業図」と「埴原学校絵図」は、 仙石翠淵が明治一五年(一八八 二)に描いた作品です。透視図法 (遠近法)で描かれた「埴原学校 絵図」の左上に落款があり、「蛙 声似小学乙女連模写金峰山間樵 夫  八十二叟翠淵」(埴原学校に 学ぶ女の子たちの声が、田で鳴く 蛙の声のようににぎやかだ、模写 したのは、金峰山の樵である八二 歳の翠淵である)と書かれていま す。

  仙石翠淵は、享和元年(一八〇 一)、筑摩郡埴原村に仙石治右衛 門政伴(号雪国)の長男として生 まれました。通称を牛鹿、諱を政 慶といい、晴雪楼翠淵と号しまし た。一二歳のとき父を亡くします が、翠淵は、小さい時から絵をか くことが好きでした。一七歳の 時、祖母が百人一首にならって自 ら作った歌を書いたので、翠淵 は、一首ごとに山水等の絵を描き 添えた一冊の綴本を作りました。

  三七歳のとき、自作の硯箱を諏 訪高島藩領主に献上しました。五 七歳には、亡父の死後名主役代理 後見人の叔父仙石杢右衛門が死去し、翠淵はかわって名主役を高島 藩より仰せつかりました。

  六四歳の頃には、奇抜で精妙な 器具をしきりに製作する翠淵を危 険視した藩が密かに行動を監視し たので、身の危険を感じて、和泉 村生妻の知人中島家に身を寄せま した。二階の一室に約三年余りか くれて住むあいだ、多くの画を制 作しました。

  六七歳で、藩より帯刀を許され ました。明治一〇年に七七歳に なった翠淵は、自宅でお祝いを開 催し、近隣各地の雅人・書家・画 家・詩人・歌人・俳人が大勢あつ まりました。

  明治天皇の巡幸を描いた「聖駕 御小休図」は、八〇歳の作品です。 また、「開智学校図」は天皇巡幸 の折りに、和歌とともに天覧に供 しています。   八二歳の時、「農業之図」「養蚕 之図」を作り、第一回内国絵画共 進会に出品して褒賞を受け、即日 農商務卿品川弥二郎に買いあげら れ、大臣室の壁に飾られました。

 

  翠淵は、明治一八年、八五歳で 亡くなりました

人間を描いた農村の画人

中島治康

 中島治康は、明治 42 (1909 )年6月に中山村に生まれた。 昭和3年(1928)の第 14 回 全国中等学校優勝野球大会で、 松本商業学校の治康は、平安中 学との決勝まで5試合を1人で 投げ抜いて、優勝投手になった。 松商を卒業後、早稲田大学へ入 学、右投げ右打ちの一塁手、外 野手として活躍した。
 
ノンプロを経て、 11 年に東京 巨人軍に入団した。三冠王は現 在までに7人( 11 回)が達成し ているが、日本プロ野球初の三 冠王は、中島治康である。
 
巨人の主砲だった治康は、 昭和 13 年の秋のリーグで(試 合数 38 )、打率・361で1位。 本塁打は史上初の2ケタの 10 本(2位が5本)、打点もタ イガースの藤村富美男に4点 差の 38 点だった。当時は特別 表彰はなく、戦後になって三 冠王と認定された。
 
巨人と大洋までの治康の通算 14 年間のプロ野球生活で、 首位打者2回、最多安打3回、 本塁打王2回、打点王4回の タイトルを獲得し、最優秀選 手1回、ベストナイン1回の 表彰をうけた。

昭和 18 年、治康は巨人の藤 本定義監督のあとを継いで監 督に就任した(選手兼任)。 その年には、 84 試合で 54 勝 27 敗3分で優勝、巨人のV5を 達成した。
 
戦後に再開された 21 年には、 治康はふたたび巨人の監督を務 めた。 26 年の開幕から6月まで、 2リーグに分かれたあとに大洋 球団の監督を務めた。治康の監 督成績は、巨人(昭和 18 、 21 、
22 、 24 )、大洋(昭和 26 )の通算 5年で、302試合、169勝 127敗。勝率・571だった。
 
昭和 26 年、大洋ホエールズ の監督兼選手を最後に、治康 は 42 歳でプロ野球を退いた。 現役引退後は、読売新聞社嘱 託となり、運動部で主に六大 学野球の評論に健筆をふる い、読者の人気を集めた。ま た、指導者としてアマチュア 野球の育成に尽力した。
 
東京ドーム野球体育博物館 内に野球殿堂があり、昭和 38 年に殿堂入りした治康の名が レリーフに残されている。
 
治康は、昭和 62 年4月 21 日に 77 歳で亡くなった

プロ野球初の三冠王

公民館報 第316号掲載

中山の偉人

 平成26年7月から4回に分けて松本市公民館報中山版に掲載された「中山の偉人」(寄稿:小松芳郎氏)を原文のまま掲載しています。

​ 中山を知る貴重な資料です。