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松本市中山公民館地域活性化プロジェクト 住んでよかった中山

 平成27年5月から6回に分けて松本市公民館報中山版に掲載された「中山の今昔」(寄稿:小松芳郎氏)を原文のまま掲載しています。

​ 中山を知る貴重な資料です。

  

中山の歴史

​​ 寛政10年(1798)の宗門送り状。「諏訪領神田村」「御分地埴原村」の文字が見える。

中山の今昔 ①

■ 中山の三か村 

 江戸時代の中山は、 埴原村 ・和泉村・神田村の三村に分かれていた。 最初は松本藩の領地だったが、とちゅうから、藩となり、さらに、一部の村 松本藩からわかれて諏訪高島が分家領となった。

 

■松本藩の時代  
 江戸時代、藩や村の生産高 は、石高(こくだか)とい うように、米の量によって 表された。石川数正が天正 18 年(1590)に8万石で松 本藩領主となり、2代続いた あと、小笠原秀政が飯田から 8万石で松本に入り、2代に わたって元和3年(1617) まで松本藩をおさめた。この 間は、埴原村・和泉村・神田 村は松本藩に属した。和泉村 の名は、泉村、泉之郷、和泉 村とかわっている。 

■高島藩の時代    

  小笠原氏のあと、松平(戸 田)氏が松本藩へ7万石で 入った。1万石の差ができた から、半分の五千石(ちょう ど松本藩内の 13 か村をあわせ た石高)が元和4年に諏訪高島藩の支配下にはいること になった(東五千石という)。 そのなかに埴原・和泉・神田 の3か村が入ったから、中山 のこの3か村が松本藩から諏 訪高島藩へとかわることと なった。のこりの五千石(西 五千石という)は、高遠藩の 領地となった。

 

■ 高島藩と埴原知行所の時代
 
 明暦3年(1657)3月、 諏訪高島藩領主の諏訪忠晴は 父忠恒の遺言に従って、弟の 頼蔭と頼久に東五千石のうち から各千石を分割相続するこ とを許された。
 
 諏訪頼蔭は、千石余の埴原 村を受けることになり、この ときから埴原村は、諏訪氏の 分家領となった。頼久は、い まの寿地区の村々をあわせて 千石の相続をうけた。それま での高島藩の東五千石領は、 高島藩三千石と、埴原(諏訪 頼蔭)と百瀬(諏訪頼久)の 両知行所に分けられたのだ。
 
 延宝5年(1677)5月、 年貢が不足するのを理由に、 埴原知行所の諏訪頼蔭は願い 出て、和泉村から一一〇石余 (上和泉)、白姫村から七五石 を分けて埴原へ追加された。 和泉村(上和泉は埴原へ)と 神田村は、本家領として諏訪 高島藩の所領で幕末まで継続 した。

 

≪江戸時代の中山の村≫  公民館報318号掲載

 

中山の今昔 ②

≪中山村の成立≫  公民館報319号掲載

 埴原村・上和泉村の埴原 知行所(諏訪左源太知行所) は、 明 治 元 年 (1868)3月 に名古屋藩塩尻 取締役所(塩尻町 永福寺本堂を仮 用)に属すことに なり、翌2年6月24 日に伊那県塩 尻出張所(塩尻宿 本陣の川上家を 仮用)に属します。 いっぽう、和泉村 と神田村は、諏訪 高島藩の管轄で したから、明治4 年7月 14 日の廃 藩置県で高島県 の管轄となりま した。同4年 11 月20 日に、信濃国が 大きく二つにわ けられ、筑摩県(中 南信と飛騨国)と 長野県(旧長野県、 東北信)となりま した。伊那県の埴 原村も上和泉村も、高島県の 和泉村と神田村も、この時から筑摩県の管轄となります。
 
 筑摩県は町村合併を強力に 推し進め、こうした政策の一 環として中山村が明治7年 10 月 23 日に成立します。この日 に、埴原村・和泉村・神田村・ 上和泉耕地を合併して「中山 村」とするという達が筑摩県 からでていま す(別掲文書)。 中山村には「ナ カヤマ」とわざ わざ読み方ま で記されてい ます。
 
 新しい村の 発足にあたっ て、村名につい て戸長などが 協議をかさね ました。法螺貝 山(中山の異名) の近くにある 村という意味 から、「法螺貝 村」ではどうか。 埴原の牧の「埴」 と神田の「神」 をとった「埴神村」がふさわし い。「神和原村」 が適当ではな いかというさ まざまな意見 がありましたが、「法螺貝村」 をかえて、「中山村」とすることに意見が一致し、筑摩県 に具申して決定したといいま す。
 
 明治9年8月 21 日に、筑摩 県と旧長野県とが合併して、 新しい長野県が成立します。 これが現在の長野県です。中 山村は、この時から、「長野 県筑摩郡中山村」となります。 明治 12 年に、長野県下 10 郡が16 郡になりますが、それまで の筑摩郡が東筑摩・西筑摩郡 (後の木曾郡)の二つにわけ られました。この時から「東 筑摩郡中山村」となります。
 
 明治政府の市制町村制の法 律によって、明治 22 年4月1 日から自治体としての「中山 村」が成立します。

 中山村合併についての筑摩県達

 

中山の今昔 ③

≪国会開設を求めて≫  公民館報320号掲載

 明治政府に国会開設をせま る自由民権運動が、明治7年 (1874)に板垣退助たち が、民選議院を設立させよう と建白を出したことからはじ まります。
 
 松本の人た ちも政治結社 をつくろうと 考え、 13 年4月11 日、奨匡社創 立大会を開き ました。暴風雨 のなかを、県下 各地から社員 745人が集 まりました「。奨 匡」は、「りっ ぱなことをす すめ、悪いこと をただす」とい う意味です。
 
 1か月後の 5月 23 日、奨 匡社代表の 25 歳の松沢求策と 20 歳の上条䴵 司は、「天皇陛下に、国会開 設を許可されるようお願いし ます」という、2万1535 人が署名した「国会開設ヲ上願スルノ書」と題する請願書 をもって上京します。2人の50 日間にわたる粘り強い活動 は、多くの注目を集めました。
 
自由民権の波におされた政 府は、 14 年に「国会開設の詔」 をだし、 22 年に国会が開設さ れました。
 
 この自由民権運動の松本奨 匡社の社員が中山にも何人か いました。また、上京した上 条䴵司は、中 山村の埴原 学校の教員 でした。䴵司 は今井村の 藤本家の二 男として生 まれ、明治 10 年に長野師 範学校松本 支校に入学。 今井村の上 條家の養子 となり、 12 年 6月から翌 年3月まで 埴原学校に 奉職します。 䴵司を教員 に推挙する 条約書は、中山村の戸長・副 戸長、学校世話役が何人か署 名しています。この中の6人 が、松本奨匡社の社員となっ ています。  
 奨匡社員名簿には1035 人が記されていますが、東筑 摩郡内の奨匡社員は566人 で、全社員の 54 %をしめて います。中山村の社員は 37 人 で、北深志町( 71 人)・南深 志町( 52 人)についでいまし た。中山村の社員の中には埴 原学校と和泉学校の教員がい ました。そのうちのひとりは、 冬は夜学に夏は休業日に中山 の村内の若衆 30 人ほどを集め て討論会をしています。上条 ら埴原や和泉学校の教員によ る村民への影響が強かったと いえます。

上条(藤本)司の埴原学校教員条約書

 

 「二山の工事場は、大変出 きました。あそこへ朝鮮人や 中国人が大勢来ました。その 人たちの宿舎の畳が学校の体 操場へ2000枚くらい来て います。この村の大きな家の 蚕室は、軍部で使われるよう になりました。内地が決戦場 になった今、私たちは、食糧 増産にはげみます。米英撃滅の日まで頑張りましょう。」
 
昭和 20 年7月 16 日に、中山 村の 12 歳の女子学童が、九州 に入院中の 22 歳の兄にあてた 手紙の一節です。
 
 中山地区では、 20 年4月か ら半地下工場の建設が始まり ました。陸軍、三菱重工業株 式会社、熊谷組、技術系の大 学・専門学校の学生、勤労動 員による松本市局辺や県内外 の人びと、中国人、朝鮮人、 中山国民学校生徒などが動員 されました。中国人500余 人は、俘虜として特別な場所 に収容されていました。
 
 この軍事 工場は、三 菱重工業株 式会社(名 古屋)の航 空機工場が 空襲にあっ たため、松 本へ疎開し て建設され たものです。 2月に、松 本市域の既 存工場や学 校への疎開 が計画され ましたが、 戦況が危う くなった4 月、山間地 帯に再疎開させ、陸軍航空本 部の管轄のもとに、地下・半 地下工場の建設をはじめたの です。  手紙にもあるように、半地 下工場完成後には、工員の宿 舎を中山に新築する計画で、 それまでは中山の蚕室を利用 しようとしたのです。私(小松) の家の蚕室も2階だけ工場へ 貸すことにし、8月1日から 1年間、 20 人ほどの工員が宿 泊するという契約をしていま す。中山村では 10 軒くらい蚕 室を提供したとのことです。  
工事は終戦までの約5か月 間実施され、完成間近の地下・ 半地下工場もありましたが、 航空機の部品製造の操業まで はいたりませんでした。8月20 日には日大生が帰り、9月 は工場付近のかたつけに児童 が動員されました。中国人が 帰国したのは 11 月 27 日のこと です。
 
中山文庫のすぐ脇に、この 軍事工場のことを記した中 山地区の戦争遺跡記念碑が、 松本市によって建てられて います。

二山に建設された20m×30mの半地下工場。 左隅の人物と建物をくらべてみてください。

設計を依頼された池田三四郎さんの撮影です。

中山の今昔 ④

≪戦時下の軍事工場の建設≫  公民館報322号掲載

 

中山の今昔 ⑤

≪松本市への合併≫  公民館報323号掲載

 昭和 28 年(1953)に、 町村合併促進法が公布され、 全国的に合併がすすめられま した(昭和の大合併)。この 法律は3か年有効の時限立法 で、きわめて強力に推進され ました。長野県では 28 年 10 月 に合併案を示しましたが、松 本市と東筑摩郡では、①松本 市・中山・島内の合併、②島立・ 和田・新、③入山辺・里山辺、 ④笹賀・神林・今井、⑤芳川・ 寿、⑥本郷・岡田の各村合併 が考えられていました。それぞれに問題点があり、①では、 中山が地勢上ほかの村との合 併は困難だが、松本市近郊 13 か村合併の前提ならば可能で あるとされました。
 
 そして 11 月には、1市 13 か 村合併問題連絡協議会が発足 します。翌 29 年3月 26 日、県 町村合併促進協議会はあらた な案を作成して県知事に答申 しました。この案は、松本市 が里山辺・入山辺・本郷・岡田・ 島内・島立・和田・新・神林・ 笹賀・中山・芳川・寿の 13 か 村と合併する案をふくんでい ました。
 
 しかし、このときすでに中 山村は、島内村と島立村とと もに松本市への合併が決まっ ていました。 29 年1月 25 日 (月)午後2時から 中山村の村議会議 員全員が松本市役 所に行き、「合併に 対する歴史的署名 調印を行う」と村の 日誌に書かれてい ます。この日、島内 村も合併調印式を し、島立村は2月 16 日にしています。3 月8日の県議会の 議決をへて、この3 か村の松本市との 合併が決まります。 明治7年(1874)
に中山村が成立してから 80 年 後です(昭和 18 年4月1日、 神田地区が中山村から分離し て松本市に合併しています)。
 

  29 年4月1日、島内・中山・ 島立が合併し、事務引き継ぎ が4月 15 日に行われました。 そして、4か月後の8月1日 には、新村・和田・神林・笹 賀・芳川・寿・岡田・入山辺・ 里山辺・今井の 10 か村が合併 し、それぞれに支所が設置さ れました。なお、本郷村の合 併は当初は考えられていまし たが実現せず、かわって今井 村が加わりました

 

昭和29年の「中山村宿直日誌」と「松本市中山支所の当 宿直日誌」。

村の日誌は3月31日(水)の「明日は松本市 として新発足す」の記述で終わっています。

中山の今昔 ⑥

≪中山地区の戸数と人口の推移≫  公民館報325号掲載

 明治7年(1874)10月23日、埴原・和泉・神田の3か村が合併して中山村となりました。2年後の中山村の世帯数は529戸、人口は2366人でした。明治31年は525戸、3259人です。大正期になっても、世帯数は570戸から590戸、人口は3300人から2990人の間でした。

 大正4年(1915)3月25日の衆議院議員選挙では、中山村の有権者は126人で、村戸数の22%ほどでした。9月27日実施の県会議員選挙では、選挙人名簿登録者は228人、投票した者は173人、投票率76%でした。大正10年の中山村は、稲作農家戸数449戸、養蚕戸数422戸でした。

 昭和11年(1936)は567戸ですが、農業戸数は490戸(村全体の86.4%)。稲作面積を見ると65.6%が畑で、その畑のうち83.5%が桑畑でした。この年の村の主要生産物の総価額は、農産14万74円(45.3%)蚕繭13万4724円(43.5%)となっています。農業と養蚕業が圧倒的な割合をしめています。

 昭和18年4月から関dな地区が松本市に合併します。松本市に合併した昭和29年の中山は世帯数536戸(人口2799人)でした。世帯数が600戸を超えるのは、昭和47年からです(631戸、2686人)52年に701戸(2820人)、平成元年(1989)に850戸(人口3134人で、この年から3000人を超える)、2年が935戸(3406人)そして3年に1059戸(3761人)となって世帯数が1000戸を超えます。

 明治9年から96年間は世帯数が500台だったのが、平成期になって倍近くに増えたのは、棚峯の団地ができたためです。

 

​ 平成28年4月1日現在の中山地区の世帯数は1348戸、人口は3498人です。町会別の世帯数は、和泉393戸、埴原北241戸、埴原西113戸、埴原東88戸、埴原南98戸、棚峯415戸です。